2016年3月11日金曜日

上早川の歴史と伝説(その11)「田沼の支配」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.11 ]

上早川の歴史と伝説(その11)
田沼の支配
大藩の高田藩と前田藩に挟まれた当地は、糸魚川藩領、高田藩領、幕府領、伊勢神領などが混在する複雑な支配が続きました。以前にも紹介したように早川谷も例外ではなく、江戸時代後期には田沼領も混在していました。
田沼家は御三家・紀州徳川家に六百石で仕える家柄でしたが、吉宗(よしむね)の将軍抜擢により旗本となり、意(おき)次(つぐ)の時には遠江相良藩(静岡県牧之原市)五万七千石を領する大名にまで登りつめました。意次は老中となって殖産興業を推進して幕府財政を立て直したことで知られます。父の若年寄・意(おき)知(とも)が暗殺され、祖父の意次もその辣腕が仇となって失脚、後継の意(おき)明(あき)は安永元(一七七二)年に、奥羽下村藩(福島県福島市)二万七千石に移封され、天明七(一七八七)年から文政六(一八二三)年までの三十六年間、早川の下出に陣屋を構えて早川・西海・根知・川西谷の三十三ケ村を支配していました。
早川谷では、上出、下出、谷根、西塚、東塚、五十原、角間、北山、砂場、大平、中川原新田、土倉、吹原、東土塩、西越、北越が田沼領でした。その面影は田沼陣屋の門を転用した砂場・善正寺の山門(市・指定文化財)などにみられましたが、この山門も平成十六年の突風で全壊、今では日光寺・観音堂の手洗鉢、月不見の池の鳥居や太鼓橋などに名残をとどめるにすぎません。
※参考:『西頸城郡誌 』昭和五年 西頸城郡教育会
木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その12)「安永二年の焼山大噴火」 
■前→上早川の歴史と伝説(その10)「火山灰台地の開発」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

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