2016年4月12日火曜日

上早川の歴史と伝説(その12)「安永二年の焼山大噴火」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.12 ]

上早川の歴史と伝説(その12)
安永二年の焼山大噴火
最近、噴煙を増している焼山であるが、江戸時代には安永二(一七七三)年と嘉永五(一八五三)年にも噴火があったとされる。なかでも、安永の噴火は凄まじく、地元の伴家や堀口家に伝わる古記録で確認できるそうである。
それによると、安永二年の噴火は二月二十二日の朝から始まったようで、「東中段より焼け出し、東西南北、焼け回り、夜毎に明るく火炎焼けし、たちまち電雷して、岩はもちろん、大石を焼き、砂流れる音、キモに響き、まことに奈落の底に入り、心も消え果つるばかりなり。」とあり、大雨になると土石流が川を堰き止め、それが決壊して下流に大きさ被害が生じたとある。そして、山頂に阿弥陀・観音・勢至の三尊を祀ったという。
実際にどの程度の被害が生じたのであろうか。早川の流れは、火打山川と焼山川が合流して土塩付近まで直線的に流れ下って坪野、中林、宮平、越で西に曲がっている。大きな被害を想定するとこの辺ではなかろうか。市歴史民俗資料館の伴家文書「大越、谷内越、西越、北越各村の道川除地田畑川欠の絵図」(安永二年)には宮平から旧越の早川右岸側の大規模な水害が記録されている。前述の焼山の噴火による早川の決壊による被害の可能性もある。
それにしても、現在とほぼ同じような集落が成立していた二五〇年前、焼山の噴火や災害に伴う記録はこの程度なのであろうか。まだまだ確認する必要があろう。
砂防堰堤や河川堤防が整い、江戸時代のようなことはないであろうが、噴火の規模によってはこれらの施設がどの程度機能するかはわからない。毎朝、山を仰いではご機嫌を祈るばかりである。
木島 勉
→上早川の歴史と伝説(その13)「焼山噴火の痕跡~妙高市馬場遺跡~」 
■前→上早川の歴史と伝説(その11)「田沼の支配」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

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